好きなものをやめてしまう時って、こういう時なんだろうか

先に断っておきますが、ほんとに「ざれごと」ですよ。

現在、『トウキョウ・シャンディ・ランデヴ feat. 花譜, ツミキ』が無限ループしている。

もう、何回、何十回、何百回ループしているかわからない。

端的に言って、衝撃なわけです。
いや、この曲に限った話じゃないですが、どうしようもなく魅かれるものってありますよね。

他にもこんな曲と書き始めかけたが、挙げだしたら、いくらでも出てくるし、書き始めると、書いていないものがそうではないと言っているような感じになってしまい、そうなると不本意なので、書き始めかけたのだがやめた。

『トウキョウ・シャンディ・ランデヴ』にしても、今現在、たまたまこの曲という話で、ボクにとって、これが人生で一番ということで挙げているわけではない。

誰に何を断っているのかわらかんが。

何というか、ここを基準に座標軸がつくられているんだ、というような求心性。
人にもいますよね。
その人がいる場所が世界の中心です、というような存在。

そして、結局、想うところが、こいつは敵わねぇや、ここに辿り着く気がしねぇや、ということ。

ちょうど今、似鳥鶏さんの本を読んでいるのだが、これまた、同じことを感じる。

何というか、自分の延長線上に存在していると思えない。
次元が違う。

二次元の世界の住人が三次元の存在を認識できないように。

ちなみに、二次元に生きている存在は一次元としてしか見えないそうです。
二次元、つまり面の世界に存在している者同士は、お互いを線でしか見ることができない。

我々の生きている三次元では、三次元して存在しているけれども、お互いの存在は面としてしか見ることができない。
三次元の存在を三次元として捉えようとしたピカソは、多くの人にすごい人だと認識され、多くの人に変な人だと認識されましたね。

三次元の存在なのに、三次元として認識できないというのは面白いものですね。

三次元の存在を三次元として認識できるのは、四次元の存在だけです。
二次元の存在は、面を上から見ることができる三次元の存在だけが、それを面として捉えることができるわけです。

それにしても、なぜ三次元の次が時間軸になるのかが、ボクにはよくわからないんですけどね。
一次元から三次元が空間軸なのに、なぜその次は時間軸に急に変換するのか。

話がずれてきました。
四次元に住んでいない人が読むブログなので、上から順にしか読めないのに、こんな間によくわからないものを挟むと、読みづらいだけですね。

こういう場合は、注釈をつけたりするんですよね、普通。
そういえば『中二階』という本が好きだったなぁ。

さて、音楽に触れてこなかった自分が、数年、曲を創っただけの状態で、そこに辿り着くわけもなく、もちろん、今の自分と、それらを比較するなんて烏滸がましい話をしているわけではない。
今後、この人たちが費やしてきた時間と努力を同じように費やしたときに、そこに至るかどうか、という話ですね。

まぁ、やってもいないのだから、至る可能性があるのか、ないのかはわからないのですが、今のボクがこんなことを書くこと自体が烏滸がましい話ですね。

で、今、書いたように、音楽に触れてこなかった自分が、ちょっと曲とか創りはじめただけの段階なので、「ここに辿り着く気がしねぇ」と思ったところで、別に困らないのだけど、ものすごい時間をかけて、ものすごい努力を費やして、ものすごく真剣にそのことばかりについて考えた人が、「ここに辿り着く気がしねぇ」と感じたときに、どれだけ好きでもやっぱりやめてしまうものなのかなぁ、と。

ボクは作曲を仕事にしているわけでも、文章を書くことを仕事にしているわけでもなく、しょせん遊びでやっていることばかり(遊びとは言え、ボクなりには真面目にやっているけど、さすがにプロ相手にそんなことは言えない)なので、これからも、楽しく作曲をしたり、文章を書いたりするんだろうなと思いますけど。

そうそう、好きなことを仕事にするっていうのは、幸せなことだと思うんだけど、それ以上に、大変なことなんだろうなって思います。

ボクは、今、曲を創ることを楽しんでいますし、まだまだ当分は飽きることがないだろうなと思っています。
けど、例えば、これが仕事で、いつまでに〇曲創らないといけない、などとなると、ものすごく嫌だろうな、と思います。

あるいは、別に創りたくないような感じのものを創らなければならない、なんてなると、それもまたものすごく嫌だろうな、と。

結局、好きなものを、好きなときに、好きなように創れるというのは、ものすごく幸せなことなんですよね。

創りたくないときは創らないという選択ができる。
創りたくないものは創らないという選択ができる。

やっぱり、お金をもらうというのは、大変なことですよね。

このブログでは、プラグインの紹介もしています。
自分がプラグインを使うために、使い方を調べたり、確認したりして、自分が学んだついでに、他にもよくわからないという人がいるのならば役に立つかもしれないなぁと思って書いているわけです。
が、まぁ、これだって、半分は好きで、楽しんでやっているんであって。

これだって、週にいくつは、プラグインの紹介をしないといけないとなると、すぐ嫌になってやめてしまうでしょうね。

まぁ、そんな感じで、好きなようにやっているボクですら、あまりに届かないすぎる存在を目の当たりにすると、何とも言えない無能感、絶望感を感じるわけで。
本気でやっている人、それに人生を賭けている人にとっては、ものすごい衝撃だろう。

そりゃぁ、もう、ポキッと折れちゃいますよね。
ボキッ、かもしれませんし、バキッ、かもしれませんが。
いや、ベキッ、でしょうか。

心って、なんで折れるんでしょうね。
折れるということは、心は棒状の何かなのでしょうか。
ボクのイメージとしては、棒状というよりは、球状なんですけど、そうなると割れますよね。

けど、「心が割れる」とはあまり言わないですね。
それとも、みんなのイメージは棒状なんでしょうか。

一体、ボクは何を書いているのでしょうか。

そう、お金をもらっていないと、こういうやりたい放題ができてしまうんですね。
そして、自分はこの程度の文しか書けないのか、と、また心がパリンと割れそうになるわけです。

生きるとは、大変なことです。

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