一夫一婦制の本質

多くの国が一夫一婦制をとっている。
一夫多妻制の国もあるが。

ちなみに、なぜ一夫一婦の反対が一夫多妻なのか。
一夫一妻とも言うようだが、一夫一婦の方が一般的だよね。

そんなこたぁ、どうでもいい。

動物は一夫多妻制が多い。
人間は一夫一婦制が多い。

繁殖という本能で言えば、一夫一妻制はわかりやすい。
いわばヒトは本能を超えて、一夫一妻制を選んでいる。

結局、ヒトは他の人の人生を抱えるだけの心があるからだと思ふ。
この人のために生きていく、と考えるからだと思ふ。

で、誰かのために生きていくというのは、1人が限界だ。

苦しんでいる人がいる。
辛い想いをしている人がいる。
そんな人を見ると、何とかしたいと思う。
それがヒトとして自然なことだ思う。
でも、中途半端な覚悟で人の人生に踏み込んじゃいけない。
どちらかが傷つく。
もしくは、どちらも傷つく。

踏み込むときは、その人と一生添い遂げるというだけの覚悟が必要だ。
それほど、人の闇は深い。

もちろん、結婚する、しないは自由だから、どうでもいいんだが、
とにかく、本当に踏み込めるのは1人が限界だ。

それは、お前の能力が低いから、お前の容量の小さいから、と言われるかもしれない。
まぁ、そこは否定しないんだけど。

例えば、ボクは「ことのは」を「おといろ」を創っている。
それを公開することで、一人の人が癒されるかもしれない。
そして、才能のある人が創った曲を公開することで、
何千万の人が癒されるかもしれない。

でも、それはあくまで結果なんだ。
ボクがその一人の人のために、才能のある人が何千万の人のために、
行動を起こしているわけじゃない。

たまたま癒された、それ以上のことを求めてはいけない。

そこを勘違いしてはいけないと思う。

カウンセリングは時間を設定しているという。
その時間だけは、あなただけに集中するということを示すためである。
逆に言えば、それ以外の時間はあなたとは関わらないという宣言でもある。

でも、そうしなければ、自分の生活は成り立たない。

誰かの人生に、誰かの生活に踏み込むというのはそういうことなんだと思ふ。

たまたま癒された、たまたま元気をもらった、それは決して無価値ではない。
むしろ、とても価値のあることだけれども、それ以上でも、それ以下でもないという線引きが、
どこかで必要なのだと思ふ。

その時、その時の感情で簡単に踏み込んではいけないことがある。
誰も傷つかないために。

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